Not your fault, but you have to own up to it.

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ ばかものよ


これは1977年、当時51歳だった茨木のり子さんが書いた詩です。

彼女は25年間連れ添った夫に、この詩の2年前に死別。その後、2006年に亡くなるまでずっと一人暮らしをされた方でした。青春時代を戦争に奪われ、女性の自由が今とは全く違った時代に、常にサバイバルモードで生きていくしかなかったけれど、詩を書き続けることでしなやかな繊細さを失わうことなく、強く、したたかに生きてきた方なのかなと思いました。


うまくいかない時、人って外的要因のせいにする(=XXのせい、どうしようもない、仕方ない等)場合と、ひたすら自分を責め続ける場合(=努力が足りないから、今までの行いが悪かったから等)があります。現実には、外的も内的も両方の要因があるものですが、なかなかバランス感覚を持って客観的にジャッジできる人って少ないんじゃないかと。


この詩のすごいなって思うところは、一見すると「自責型」な反省文に聞こえる文章が、全くそうじゃないところ。あくまで客観的に、冷静に、ピシャリっと叱ってるくれるおばちゃんみたいな感じ。うんざりするぐらい超正論なのに、経験によって裏付けられた静かな自信と、自分への愛や尊敬は全く失われていないトーンが、まさに、身が引き締まるとはこの事。最後の「ばかものよ」には愛しか感じない!


大人になると、批判を受ける回数は増えても、叱ってくれる人って少なくなるなと実感しています。私だって、人を叱る立場になることってなかなかないです。TAしてると時々あるかな笑 でも例えば家族とか、親友とかだったら絶対に嫌われないという安心感の元、相手のためを思って、言葉を選んで、相手の耳に痛いであろう事を言うことが出来たりもします。これが恋人なるとまた関係性が変わってくるので難しいですよねw 願わくば私も心から安心して叱れて、相手も叱ってくれるような関係になりたいですね♪


そして、自分の感受性とか、感性とかって自分の経験を通して形を変える部分も、どんなに時が経っても変わらない所もあるけれど、年齢をある程度重ねると「自分はこういう人間・性格だ」って把握してる気になるし、付き合いが長くなると「あいつはこんなやつ」「あの子はいつもこんな感じ」って分かった気になりたくなるんですよね、人間って。そして長年培ってきたイメージを覆される事をされると勝手に裏切られた気分になるわけです。天気予報で今日は晴れって言ってから新しいサンダル履いてきたのに、午後から雨降ってきた、みたいな。自分に対しても同じで「あれ、自分って意外とXXな所あるんだな」って言う出来事に面すると戸惑います。それは嬉しい戸惑いだったり、怖くなる戸惑いだったりするかも知れないわけで。


自分がどんな風に成長しても味方してくれる人や、変わった自分もひっくるめて愛してくれる人は、本当に本当に貴重ですよね。そして自分の意外な面を見つけた時も、きちんと受け止めて、叱るなり、認めるなり、してあげれるといいな。


そんなこと考えている今日この頃です。

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